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岸田國士について
フランスに渡った岸田は、ジャック・コポーが主催するヴィユー・コロンビエ座に師事し、フランス純粋演劇運動に学ぶ。ジャック・コポーは20世紀演劇史の中で最も影響を与えた人物の一人である。
20世紀初頭の欧州で演劇を学んだということは、まさに近代演劇の誕生期に居合わせたということであり、岸田がそこで得たものは当時世界で最も新しく革命的な演劇であった。その岸田が日本に帰り2作目に書いた作品が『チロルの秋』であり、その後数年のうちに立て続けに発表したのが『ぶらんこ』『紙風船』である。
欧州の演劇を目の当たりにした岸田が万を持して書いた戯曲『チロルの秋』、それは岸田の人生にとって初めてとなる舞台にもなった。が、その初日を観た岸田は大変なショックを受けた。
そのときの様子を岸田はこう語っている。
初日の幕が明きました。
私は、実際、汗をかきました。とても見物席に坐つてはをられないのです。喫煙室へはひつて、頭を かゝへ、おれはどうしてこんなものを演らせたんだらうと、地団太を踏みました。舞台からは、まだ台詞 が途切れ途切れに聞えて来ます。はやく幕が下りればいゝのに……。さうだ、見物席から、そんな芝居は やめちまへ! と呶鳴つてやらう。が、そんなことをしたら、なほ恥さらしぢやないか。私は人から顔を 見られるのさへたまらない気がして、こそ/\楽屋へひつ込みました。処が、そこでまた俳優に顔を合は せ、一体、何と挨拶をすべきでせう。伊沢君が、舞台をすませて、私の方へ歩いて来ます。石川君が化粧 を落しながら、何か私に話しかけました、お前は、こんなところにゐる人間ぢやない――誰かゞさう云つ てゐるやうな気がして、私は、後を振り返らずに外へ出ました。(「チロルの秋」以来より)
西洋の演劇を輸入し、真似することから、初めから日本語で書かれ、日本のそれがテーマとなる演劇がようやく生まれ始めた時代に、岸田の書いた作品を表現できる演出家や役者などいるはずもなく、岸田はそれ以後、自分の理想はおいておき、日本の演劇レベルに合わせた戯曲を書くようになる。
また、岸田は、これからの演劇には今までとは違う俳優が必要であり、そのための訓練をする場、新しい演劇を研究し実践していく場が必要と考え文学座をつくった。そしてその文学座は今も尚、老舗劇団として日本の演劇界に君臨している。